こんばんは〜、風雅です。
10月最後の記事で書いた通り、10/26-30の間、岐阜県南東部を1人で観光して参りました。
中津川市の湯舟沢温泉に4連泊し、中津川市・恵那市・長野県南木曽町で古城跡やかつての宿場町を巡り、最終日には長野県松本市の松本城にも立ち寄る旅程でした。
今回はその見聞録第一弾として、初日:10/26㈪の前半のことを書きます。
よかったらお付き合い下さい(^^)/
■鉄道の旅
初日の前半は東京都から岐阜県への移動に費やしました。
特急"あずさ"と"しなの"を塩尻で乗り継ぐ、在来線での鉄道旅行です。
「中央線での東西移動は時間がかかるから、
鉄道好きの人しか使わない」
と長年思っていましたが、意外と短い時間で行けました。現に、午前8時に八王子駅から"あずさ"に乗って、正午過ぎには"しなの"で中津川駅に到着しています。
特急2本はどちらも車窓の風景に見応えがありました。殊に"しなの"乗車区間は、木曽山脈の深い谷を木曽川とともに西へ進む道筋で、山河の美しさと厳しさを同時に感じさせる雄大な景色でした。
「戦国時代、東国の武将が上洛しようと思ったら、こんな山深い地域を踏破する必要があった訳か…」
と感慨にとらわれずにはいられませんでした。
駅前に"木曽義仲公旗揚げの地"と誇らしげな看板が立っているのを、あるいは「木曽路は50kmで進もう」と道路脇に注意喚起の看板が立っているのを、ガラスごしに見かけました。
木曽義仲という歴史上の人物を
「本質的には野盗の頭目のようなもの」
と見なす風雅にとって、彼に"公"なる敬称が付くのを見るとは意外の一言でした^_^;。
名門・源氏に生まれ(木曽義仲は源頼朝と従兄弟関係に当たります)、木曽地方で頭角を表して日本史の表舞台に躍り出た義仲は、地元の人にとっては英雄なのかもしれません。
こうした随想は、右に左にと見える位置を変える木曽川の眺めに、しばしば遮られました。
この辺りの木曽川は見るからに荒々しい流れですが、その水は澄み渡り、翡翠を溶かしたような美しい色をしています。
粗にして野なれど卑に非ずーー木曽川と木曽の山々の佇まいには、そんな印象を抱きました。
やがて列車は木曽川と別れ、トンネルに入りました。
山の傾斜がなだらかになり、視界が拓けてきて間もなく、"しなの"はほぼ定刻で目的地の駅に着きました。
この日の城攻めは、市と同名の中津川駅から始まります。
■観光案内所からの徒歩ルート
戦国時代の武将ならば、攻略目標を睨む拠点にたどり着く頃に、予め放った斥候からの報告を待って一休みしたかもしれません。
現代の一市民は、残念ながら斥候からの報告を聞くことはできませんが、観光案内所という頼もしい味方がいます。
中津川駅の改札を出てロータリー上の左に見える建物の1階に趣き、その日の目標たる苗木城への行き方を尋ねました。
聞けば、苗木城最寄りのバス停に向かうバスはちょうど出てしまい、次の発車まで1時間程度の間があるとのこと。
秋の午後の1時間は貴重です。
「歩けますか?」
と訊くと、徒歩での登城ルートについて説明してもらえました。
曰く、案内板を辿って行けば麓まで行けて、そこからは城山の周りを半周しつつ登るハイキングコースか、鎖を使って登る本格的な山道を選べるとのこと。
苗木城のパンフレットも頂けました。
ちなみに、徒歩の登城ルートについては、旅行前に中津川市の観光関連のHPで地図をダウンロードし、印刷してありました。
ただ、土砂崩れで一時的に閉鎖されていたり、地元の方から見て現実的でないという意見があったりしないかが知りたかったので、ここでも訊いてみたのです(冷やかしではないのですよ…!)。
案内所の方のお話から、時間はかかるけれどもハイキングコースならば歩けそうだという感触を得ました。
大きな荷物や時刻表などの不要な物をコインロッカー(観光案内所の建物1階にあり、駅の待合室横のコインロッカーよりも安い)に預け、善は急げと出発です♫。
苗木城ヘの徒歩ルートは、駅のロータリーにある地下道入り口から始まっていました。
中津川駅のロータリーは駅の南東側にあるのですが、地下道で北側に抜けられます。
その出口から、案内看板伝いに麗らかな田園地帯を歩いていくと、道はやがて木曽川に架かる玉蔵大橋に続きます。
ここから眺める木曽川は、山と空を映して青緑色をしていました。
橋の上から下流方向を見ると、すぐ手前に人や車の往来がない鉄橋が架かり、はるか遠くに赤い城山大橋と笠置山が見えます☟。
玉蔵大橋を渡ってからはバス通りを外れ、パンフレットの地図と案内看版を頼りに進みました。
道は、しばらく木曽川沿いに西進し、やがて川岸から離れて北西方向に向かいます。
この、川から離れるカーブの辺りに親切な案内看板が立っていましたが、ここからの眺めはむしろイヤ〜な予感をかき立てるものでありました☟。
画像にうまく映っているか分かりませんが、肉眼だとこの山の頂上付近に木を組んだような工作物が見えるのです。
「あれが苗木城の城山…?!
あそこまで登って来いってこと?!」
想像以上に(当社比で)本格的な山登りではないかとの予感に軽く震えましたが、ハイキングコースには"飛騨街道"なる可憐な名前も付いています。
この時は、
「中津川市の真ん中に位置する観光名所だから、自然公園みたいに整備されて人がいっぱいいるだろう」
と前向きに考えていました。
この看板付近に観光客も地元住民の姿も見えない事実を、私は軽視していたのです…。
■苗木城の麓から城跡の入り口まで
アスファルトの道は、城山の麓まで続いていました。
そこに沢があり、明らかに使われていない橋が架かっています。
『北恵那鉄道跡』と記された看板がありました。
後で調べたところでは、沢は"山の田川"、橋は"上地橋梁"というようです。
アスファルト舗装が途切れるぎりぎりの位置に白っぽいセダンが1台止まっていて、
「刑事ドラマで身代金の受け渡し場所になりそうだな……」
などと考えながら通り過ぎました。
その車に乗り降りする一組の男女が"飛騨街道"を抜けるまでに見た、最後の人影になりました。
いえ、怪しい雰囲気ではありませんでしたよ、念の為…(^o^;。
そう、城山のハイキングコースは私の予想以上に山道でした。
木々の向こうから聞こえる沢鳴りに心洗われ、意気揚々と登り始めたのも束の間、忽ち息が上がり始めます。
『傾斜がキツい・見通し悪い・誰もいない』の3条件が揃った道行きに
「怖い。引き返したい」
と正直なところ思いました。
殊に、ガサガサッと音がしてすぐ後に鳥の慌ただしい羽ばたきが聞こえた時は、肝が冷えました。木が生い茂って姿が見えない分、熊か猪かと恐ろしい想像が膨らみます。結局何も出てきませんでしたが、一体あれは何だったのでしょうか……。
心細い思いで進む途中に"お化け岩"なる奇岩を見ました。
「飛騨街道というけれど、『つまり飛騨は街道でもこんな山奥だよ』という美濃人のあてこすりなのかなぁ」
幾分やさぐれた憶測で気を紛らわしつつ(岐阜県民の皆さま、申し訳ありませんm(_ _)m💦)、山道を進んで行くと、やがて人の背丈よりも高い大きな岩:"弁慶岩"が見えてきました。
このひねりのない名前の巨岩は、石材として切り出そうとした跡が残っているのが興味深い点です。
城を造る際には建築資材が必要となりますが、遠くから運んで来るのは骨が折れたことでしょう。
手近で調達できればそれに如くはない訳で、岩に残る痕跡から、
「何とか石材を現地調達したいなぁ」
という古人の本音が透けて見えた気がしました(笑)。
弁慶岩を過ぎた地点で森は途切れ、急傾斜の草地に出ます。
この草地には幾分人が踏み固めた跡があり、上地橋梁からの山道はともかく、弁慶岩まではそこそこ人が見に来るのかと思われました。
「城、秋だけど草木深し……」
大好きな詩の一節を格調低くもじりながら、なお続く坂道を登って行くと、やがて車道に出ました。
看板や手元の地図から、その先が城址公園の入り口に続いていることが分かりました。
いくつか駐車場を通り過ぎ、車とすれ違いますが、歩く人の姿は見えません。
この城址公園には多数の桜が植わっており、花見の頃には賑わうのでしょう。駐車場は広いのですが、この日は閑散としていました。
上の画像の左中程は、そうした駐車場の1つです。
ただ、気になるのは手前の池です。
駐車場に併設するには不似合いというか、むしろ少し離れた距離の室内から眺めるほうが風情を感じられそうな佇まいでした。
「これ、かつてはお屋敷の庭園の一部だったのでは?」
と感じました(裏付けは取っていないので、風雅の憶測や思い込みかもしれません💦)。
このように、時々休憩を取ったり立ち止まったりしながら、苗木城跡のほうへと向かいます。
案内看板の「あと○○M」という数字が大分小さくなってきて、ワクワク感が高まってきました。
ーーという所で、既に長くなっているので、前編の区切りとします。
続きの記事では苗木城跡を取り上げます。
よかったらまたお付き合いください。
それでは、また〜(^^)/